「生きている」ことと、「生きる」こと~映画「生きる」に学ぶこと~
皆さんは、「生きる」という映画を見たことがあるでしょうか。
1952年秋の黒澤明監督の、日本の映画史に残る傑作です。
見たことがない人の為にあらすじを書いたサイトを挙げておきます。
ネタばれになるので、避けたい方は以下全てを読まずにビデオかDVDで見て下さい。
ストーリーはこちら
人はいつか死にます。
それを誰しも分かっているのに、いざもう死ぬとなったら
突然のことに驚いてしまうものです。
(医療の腐敗は置いておいて、)死の宣告を冷静に聞ける人はいるのでしょうか。
言葉では理解できても、受け入れられない。
言葉では何とでもいえるのに、
行動に移すのは難しい・・・
という現実を踏まえた上で、
生きていることと、生きることの違いはどこにあるのだろうか。
「生きている」とは、言葉を変えたら「死んでいない(死のうとしていない)」
ならば、「生きる」とは何か。
それは、ただ死んでいないというだけではなく、
この世に生まれたことを無駄にしないで何かに一生懸命になっていることです。
死ぬ時になって、はじめて「生」の価値を知ることになるのです。
「生きている」ことと「生きる」ことの違いに気づくそうです。
映画の中で、印象的な言葉があります。
たいていの人は、あと少しで死ぬと分かった時に死んだようになります。
しかし、この人は違うかったのです。
死ぬと分かった時から、ようやく(本当の意味で)生き始めたのです。
この映画の主人公は、公務員として役所で30年間ただ働いてきたのです。
しかも無遅刻・無欠勤で毎日ずーっと単調にはんこを押すのみ。
市民からの要望を聞くはずの市民課長でありながらも、
実際は単純にはんこ押しと書類の処理のみ。
椅子に座っているだけで、それが仕事となっていたということです。
まるで、時間をつぶすかのように。
意味も目的もやりがいも何もなく、
組織に従順にすることをしていただけ。
自分が居なくなっても出来るではないかと新人の一人が冗談で言っても
その通りだから誰も笑えない。
でも、それが自分の人生・生活だとばかりにただ処理する日々が続く。
渡辺(主人公)は30年間も、そう言う生き方をしてきたのである。
ただ息子のことを想い、その息子の為に・・・
しかし、実際にすることと言えば「はんこ押し」だけだった。
そんな渡辺は、自分がもうすぐ死ぬと分かった時、
自分は何のために生きてきたのか、この30年。
と、深く悩むことになる。
また、これまでの人生が「死んでいた」ことにようやく気付く。
何か生きた痕跡を残したい。
誰かを喜ばせたい。
この一つの想いが、役所を動かしたのだった。
これまでの彼には絶対にできなかったことを、
あらゆる障壁を打ち破るようにして、
住民らが訴えていた「沼地を改良し、子どもの為の公園竣工」
を実現させたのである。
直接、役所を動かし、世界を変えて見せたのだった。
それまでの人生は、というと、誰の為でもなかった。
自分ではなくても出来ることをただ機械的にこなしていただけだった。
それと正反対のことを成し遂げたのである。
どうしようもない世界のなかで、
それをたった一人の行動で実現させたのである。
一人では世界を変えられないとか、こんな社会だからどうしようもない
と、思うこともよくあると思う(私もあります)。
でも、本当はそうではないんです。
死ぬ気になれば何でもできるのです。
こんなに(富の有無に関わらず、)自分が生きるだけで精一杯の人ばかりの社会。
それでも、誰かを助けたいとか、救いたい、役に立ちたいという精神は
全く汚されてはいない。
そういう人間性にあふれる生き方をしていけたら素晴らしい。
ということを訴えかけているのです。
私はこの映画を見て、勇気が出ました。
後悔しない生き方をしようと、強く思いました。
人間は誰しも、生きているだけで価値があるものです。
それをそこで終わらせないで、さらにそこから一歩踏み出せたら、
きっと生まれてきた意味が見つかる、と思う。
答えは現場にこそある。
答えだけを探しても仕方がない。
死ぬ直前に分かるものをはやくから求めても・・・
病気を見るんじゃなく、病人を見ることが大切なのです。
生まれてきたことが偶然なら、
その偶然を活かして、この世に何か残したい。
それが自分の意思になるから。
私利私欲や見返りを求める心とは無縁のところで、
きっと(死ぬまでに)何かを成し遂げられるはず。
自分がただ機械的に生きていたら、何も生み出さないかもしれない。
自分が楽しく生きていたら、それだけで人を楽しませられるかもしれない。
自分が精一杯生きていたら、それだけで人を勇気づけられるかもしれない。
他人を目覚めさせる生き方をしたい。
誰にも指図されず、自分の意思で、一生懸命生きたい。
あらゆるいわゆる工作員や、権力者さえ巻き込んでしまうくらいの
幸せな人生を作っていきたい。
そう、お金や富を崇めている人に、あっと言わせるような生き方。
人間に備わる自然本来の、地に足が付いた、まっとうな生き方。
この世界で、誰しもひとりで生きているんではないことを、
もっと実感できる社会になったらいいなと思うのです。
それぞれの現場で、実現していきましょうね。
「思い立ったが吉日」、です。
早速始めましょう。
それが、廻りまわって最期は自分の為にもなったと思えるように願いつつ、
このあたりで締めくくらせていただきます。
いつもながらに、ありがとうございます。
↓ブログランキングに参加しています、賛同して下さる方はクリックをお願いします。
皆さんのクリックのおかげで、順位が上昇しています。
これからも、皆さんの期待にこたえられるような記事を書いていくつもりです。
こんなブログを応援して下さる方に感謝です。

1952年秋の黒澤明監督の、日本の映画史に残る傑作です。
見たことがない人の為にあらすじを書いたサイトを挙げておきます。
ネタばれになるので、避けたい方は以下全てを読まずにビデオかDVDで見て下さい。
ストーリーはこちら
人はいつか死にます。
それを誰しも分かっているのに、いざもう死ぬとなったら
突然のことに驚いてしまうものです。
(医療の腐敗は置いておいて、)死の宣告を冷静に聞ける人はいるのでしょうか。
言葉では理解できても、受け入れられない。
言葉では何とでもいえるのに、
行動に移すのは難しい・・・
という現実を踏まえた上で、
生きていることと、生きることの違いはどこにあるのだろうか。
「生きている」とは、言葉を変えたら「死んでいない(死のうとしていない)」
ならば、「生きる」とは何か。
それは、ただ死んでいないというだけではなく、
この世に生まれたことを無駄にしないで何かに一生懸命になっていることです。
死ぬ時になって、はじめて「生」の価値を知ることになるのです。
「生きている」ことと「生きる」ことの違いに気づくそうです。
映画の中で、印象的な言葉があります。
たいていの人は、あと少しで死ぬと分かった時に死んだようになります。
しかし、この人は違うかったのです。
死ぬと分かった時から、ようやく(本当の意味で)生き始めたのです。
この映画の主人公は、公務員として役所で30年間ただ働いてきたのです。
しかも無遅刻・無欠勤で毎日ずーっと単調にはんこを押すのみ。
市民からの要望を聞くはずの市民課長でありながらも、
実際は単純にはんこ押しと書類の処理のみ。
椅子に座っているだけで、それが仕事となっていたということです。
まるで、時間をつぶすかのように。
意味も目的もやりがいも何もなく、
組織に従順にすることをしていただけ。
自分が居なくなっても出来るではないかと新人の一人が冗談で言っても
その通りだから誰も笑えない。
でも、それが自分の人生・生活だとばかりにただ処理する日々が続く。
渡辺(主人公)は30年間も、そう言う生き方をしてきたのである。
ただ息子のことを想い、その息子の為に・・・
しかし、実際にすることと言えば「はんこ押し」だけだった。
そんな渡辺は、自分がもうすぐ死ぬと分かった時、
自分は何のために生きてきたのか、この30年。
と、深く悩むことになる。
また、これまでの人生が「死んでいた」ことにようやく気付く。
何か生きた痕跡を残したい。
誰かを喜ばせたい。
この一つの想いが、役所を動かしたのだった。
これまでの彼には絶対にできなかったことを、
あらゆる障壁を打ち破るようにして、
住民らが訴えていた「沼地を改良し、子どもの為の公園竣工」
を実現させたのである。
直接、役所を動かし、世界を変えて見せたのだった。
それまでの人生は、というと、誰の為でもなかった。
自分ではなくても出来ることをただ機械的にこなしていただけだった。
それと正反対のことを成し遂げたのである。
どうしようもない世界のなかで、
それをたった一人の行動で実現させたのである。
一人では世界を変えられないとか、こんな社会だからどうしようもない
と、思うこともよくあると思う(私もあります)。
でも、本当はそうではないんです。
死ぬ気になれば何でもできるのです。
こんなに(富の有無に関わらず、)自分が生きるだけで精一杯の人ばかりの社会。
それでも、誰かを助けたいとか、救いたい、役に立ちたいという精神は
全く汚されてはいない。
そういう人間性にあふれる生き方をしていけたら素晴らしい。
ということを訴えかけているのです。
私はこの映画を見て、勇気が出ました。
後悔しない生き方をしようと、強く思いました。
人間は誰しも、生きているだけで価値があるものです。
それをそこで終わらせないで、さらにそこから一歩踏み出せたら、
きっと生まれてきた意味が見つかる、と思う。
答えは現場にこそある。
答えだけを探しても仕方がない。
死ぬ直前に分かるものをはやくから求めても・・・
病気を見るんじゃなく、病人を見ることが大切なのです。
生まれてきたことが偶然なら、
その偶然を活かして、この世に何か残したい。
それが自分の意思になるから。
私利私欲や見返りを求める心とは無縁のところで、
きっと(死ぬまでに)何かを成し遂げられるはず。
自分がただ機械的に生きていたら、何も生み出さないかもしれない。
自分が楽しく生きていたら、それだけで人を楽しませられるかもしれない。
自分が精一杯生きていたら、それだけで人を勇気づけられるかもしれない。
他人を目覚めさせる生き方をしたい。
誰にも指図されず、自分の意思で、一生懸命生きたい。
あらゆるいわゆる工作員や、権力者さえ巻き込んでしまうくらいの
幸せな人生を作っていきたい。
そう、お金や富を崇めている人に、あっと言わせるような生き方。
人間に備わる自然本来の、地に足が付いた、まっとうな生き方。
この世界で、誰しもひとりで生きているんではないことを、
もっと実感できる社会になったらいいなと思うのです。
それぞれの現場で、実現していきましょうね。
「思い立ったが吉日」、です。
早速始めましょう。
それが、廻りまわって最期は自分の為にもなったと思えるように願いつつ、
このあたりで締めくくらせていただきます。
いつもながらに、ありがとうございます。
↓ブログランキングに参加しています、賛同して下さる方はクリックをお願いします。
皆さんのクリックのおかげで、順位が上昇しています。
これからも、皆さんの期待にこたえられるような記事を書いていくつもりです。
こんなブログを応援して下さる方に感謝です。

- 関連記事
-
- 生まれてきてよかったと死ぬときに思える人生にしよう~全ては自分次第~ (2010/07/02)
- やって後悔するのとやらなくて後悔するのとどちらを取るかを決めるのは誰? (2010/07/11)
- 「生きている」ことと、「生きる」こと~映画「生きる」に学ぶこと~ (2010/07/17)
- とても深い歌~おかしな現代社会に訴えかけるもの~ (2010/08/02)
- 「普通がいい」という病~この世はすべて“ごっこ”である~ (2010/08/22)
スポンサーサイト