生きていること=「労働」
http://9319.teacup.com/tokaiamananndemo/bbs/4346より引用(自分の投稿です)
生きていること=「労働」 投稿者:だいだいこん 投稿日:2010年12月10日(金)13時27分38秒
> No.4341[元記事へ]
makotoさんへのお返事です。
> ふしぎさんへのお返事です。
>
> 俺は、高校受験で嫌気がさして、遊び人が多そうな大学受験は避けたけど。
受験は入学するための手段に過ぎませんから、
受験を避けるというよりも進学を避けるという表現のほうがいいと思います。
今は確かに受験せずに大学に入学する人もいますしね(一部)。
> 今の高校生は、もっと情報がはいるからもっと判断しやすい。
私もそう思います、しかし本当に大事なのは、
その大学で自分の望む勉学ができるかということと、
雰囲気も知った上で自分がどう思うかということです。
写真を見ただけでは分からないと思います。
私も人のことは言えませんが、何事も体験しなければ分からないような気がします。
だから戦争体験にしても、災害の体験にしても、
それぞれの人ががそこで感じたものが伝わらないと、
基礎的な情報だけでは無意味になってしまうと思いますね。
時代の空気というものも同じなのかもしれません。
実際に生きてきた人に思い出してもらうのが一番よいと思います。
> 社会のせいにして甘えていたら何も変わらない。
何を社会のせいにするのですか(主語は?)
まさか現在の大卒生の就職難(就職できない問題)のことですか?
社会というものが実際に存在しているのではありませんよね(この場合)。
あくまでも「社会に出る」とか、「社会で活躍する」とか言う場合、
世界(場)という意味になると思うのですが。
もちろん、「家庭」とか、「学校」とか、「会社」とか、「同好会」
というのはれっきとしたひとつの「社会」"組織"だと思います。
しかし、私が思うには「社会に出る(職に就く?)」前に、「社会に生きている」
ではないかということです。人間は社会的な存在です。
生まれたときからすでに「社会に属している」にも関わらず「社会に出る」っておかしいですよね。
その場合の意味として私は「ビジネス社会」の略なんじゃないかと考えています。
しかし、職に就くことが生きる前提のかたにとっては、
「社会」=「ビジネス社会」(社会の存在自体の目的がビジネスにある)ことに
しておきたいために、(無意識なのかは分からないが)"ビジネス"という部分を略するんでしょうね。
憲法では、「労働の義務」が定められております。
しかし私が疑問に思うのは、まず「労働」の定義が分からないということ。
「雇われていること」はそれに含まれるのは大体分かるのですが。
では、それなら「子育てや家事に専念する」というのは「労働」ではないのでしょうか。
「他人の役に立つこと」が「労働」だとするのなら、
雇われていないとしても「労働者」はいますよね。
では、別の場合を考えて見ましょう。
「村上ファンド(もうないと思うが)」の雇われスタッフは「労働」でしょうか。
証券取引のみにおいて「儲け」をはじき出す。
確かに彼らは雇われている。
しかし、その「儲け」るための行為は誰が必要としているのだろうか。
果たして、取引、融通、駆け引きは「労働」なのでしょうか。
この問題に答えてくれる人が「内閣府法務局」におられるとは思わない。
これは我々国民全体の問題だと思います。
また、疑問はそればかりではありません。
「ただ自分のために生きている人」は、本当に「誰の役にも立っていない」のでしょうか。
いかがでしょう。
まさに私のような人間のことなのですが。
「教育」を受けている期間は「労働の義務」を問われないんですよね。
それを突き詰めると、国家は「教育」を「労働」の前段階と考えているようです。
しかし、それなら私が大学生時代に経験したこととか、学んだこととか、
そういうものは、その後に「労働」しないと無意味(無価値)になるのでしょうか。
そんなことはないと私は思いたいです(笑)
将来働くためだけに大学に通っているのではないからです。
もう一度話を元に戻すと、
「自分のために生きている」=「他人の役には立たない」のでしょうか。
ご意見は人それぞれでしょうが、私はそうは思えないのです。
人は生きているだけで他人の役人立っていると考えるからです。
例え直接誰かの役に立つ「仕事」ができていなくても、
たとえどれだけ自分本位に生きているとしても、
「生きている」ということ自体がどこかの誰かの役に立っている。
そうです、「生きている」こと自体こそが、最も基本的で重要な「労働」だったんです。
前にも言いましたが、「死んだら元も子も」ありません。
人間には、生きているというだけで大仕事を果たしているのです(いつかは死ぬのだけど)。
もちろん、生きているだけで迷惑に感じる人とか、迷惑をかけるという場合もあるかとは思います。
しかし、その何倍も自分が死のうとせずに生きるということが他人によい影響を与えているのです。
一言で言うと、「自分の命を大切にできないような人が、
他人を尊重できるわけがない」ということです。
一人でも多くの人が「生きていること自体」に価値を見出せたらよいことだと、私は思います。
ここまで
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生きていること=「労働」 投稿者:だいだいこん 投稿日:2010年12月10日(金)13時27分38秒
> No.4341[元記事へ]
makotoさんへのお返事です。
> ふしぎさんへのお返事です。
>
> 俺は、高校受験で嫌気がさして、遊び人が多そうな大学受験は避けたけど。
受験は入学するための手段に過ぎませんから、
受験を避けるというよりも進学を避けるという表現のほうがいいと思います。
今は確かに受験せずに大学に入学する人もいますしね(一部)。
> 今の高校生は、もっと情報がはいるからもっと判断しやすい。
私もそう思います、しかし本当に大事なのは、
その大学で自分の望む勉学ができるかということと、
雰囲気も知った上で自分がどう思うかということです。
写真を見ただけでは分からないと思います。
私も人のことは言えませんが、何事も体験しなければ分からないような気がします。
だから戦争体験にしても、災害の体験にしても、
それぞれの人ががそこで感じたものが伝わらないと、
基礎的な情報だけでは無意味になってしまうと思いますね。
時代の空気というものも同じなのかもしれません。
実際に生きてきた人に思い出してもらうのが一番よいと思います。
> 社会のせいにして甘えていたら何も変わらない。
何を社会のせいにするのですか(主語は?)
まさか現在の大卒生の就職難(就職できない問題)のことですか?
社会というものが実際に存在しているのではありませんよね(この場合)。
あくまでも「社会に出る」とか、「社会で活躍する」とか言う場合、
世界(場)という意味になると思うのですが。
もちろん、「家庭」とか、「学校」とか、「会社」とか、「同好会」
というのはれっきとしたひとつの「社会」"組織"だと思います。
しかし、私が思うには「社会に出る(職に就く?)」前に、「社会に生きている」
ではないかということです。人間は社会的な存在です。
生まれたときからすでに「社会に属している」にも関わらず「社会に出る」っておかしいですよね。
その場合の意味として私は「ビジネス社会」の略なんじゃないかと考えています。
しかし、職に就くことが生きる前提のかたにとっては、
「社会」=「ビジネス社会」(社会の存在自体の目的がビジネスにある)ことに
しておきたいために、(無意識なのかは分からないが)"ビジネス"という部分を略するんでしょうね。
憲法では、「労働の義務」が定められております。
しかし私が疑問に思うのは、まず「労働」の定義が分からないということ。
「雇われていること」はそれに含まれるのは大体分かるのですが。
では、それなら「子育てや家事に専念する」というのは「労働」ではないのでしょうか。
「他人の役に立つこと」が「労働」だとするのなら、
雇われていないとしても「労働者」はいますよね。
では、別の場合を考えて見ましょう。
「村上ファンド(もうないと思うが)」の雇われスタッフは「労働」でしょうか。
証券取引のみにおいて「儲け」をはじき出す。
確かに彼らは雇われている。
しかし、その「儲け」るための行為は誰が必要としているのだろうか。
果たして、取引、融通、駆け引きは「労働」なのでしょうか。
この問題に答えてくれる人が「内閣府法務局」におられるとは思わない。
これは我々国民全体の問題だと思います。
また、疑問はそればかりではありません。
「ただ自分のために生きている人」は、本当に「誰の役にも立っていない」のでしょうか。
いかがでしょう。
まさに私のような人間のことなのですが。
「教育」を受けている期間は「労働の義務」を問われないんですよね。
それを突き詰めると、国家は「教育」を「労働」の前段階と考えているようです。
しかし、それなら私が大学生時代に経験したこととか、学んだこととか、
そういうものは、その後に「労働」しないと無意味(無価値)になるのでしょうか。
そんなことはないと私は思いたいです(笑)
将来働くためだけに大学に通っているのではないからです。
もう一度話を元に戻すと、
「自分のために生きている」=「他人の役には立たない」のでしょうか。
ご意見は人それぞれでしょうが、私はそうは思えないのです。
人は生きているだけで他人の役人立っていると考えるからです。
例え直接誰かの役に立つ「仕事」ができていなくても、
たとえどれだけ自分本位に生きているとしても、
「生きている」ということ自体がどこかの誰かの役に立っている。
そうです、「生きている」こと自体こそが、最も基本的で重要な「労働」だったんです。
前にも言いましたが、「死んだら元も子も」ありません。
人間には、生きているというだけで大仕事を果たしているのです(いつかは死ぬのだけど)。
もちろん、生きているだけで迷惑に感じる人とか、迷惑をかけるという場合もあるかとは思います。
しかし、その何倍も自分が死のうとせずに生きるということが他人によい影響を与えているのです。
一言で言うと、「自分の命を大切にできないような人が、
他人を尊重できるわけがない」ということです。
一人でも多くの人が「生きていること自体」に価値を見出せたらよいことだと、私は思います。
ここまで
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