「漁父辞」-渇しても盗泉の水は飲まず-
したたかに
初めまして。
屈原の『漁父辞』のようなことありますからね。
したたかに、しぶとく、ときに狡猾に生きてください。
間違っている!と思っても、合格点をもらえる答案を書いてください。あからさまに先生に逆らってもいいことはありませんよ。
真面目で正義感の強い若者をからかったり、挑発したりする人もいるでしょうけど、負けないで、したたかにしぶとく生きてください。
2010-11-26 18:33 湧泉堂さん
つい先日、上のようなありがたいコメントを頂きました。
私は、
>屈原の『漁父辞』
について一切知らなかったので、検索してみたのですが、
すごく心に迫る漢詩だったのです。
以下に転載します。
漁父辞の屈原の生き方ってどんな生き方ですか?より引用
漁父辞の屈原の生き方ってどんな生き方ですか?
教えてください。
【漁父辞】
屈原既放
游於江潭
行吟澤畔
顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與
何故至於斯
屈原曰
與世皆濁
我独清
衆人皆酔
我独醒
是以見放
漁父曰
聖人不凝滞於物
而能與世推移
世人皆濁
何不乱其泥
而揚其波
衆人皆酔
何啜其汁
何故深思高挙
自令放為
屈原曰
吾聞之
新沐者必弾冠
新浴者必振衣
安能以身之察察
受物之紋紋者乎
寧赴湘流
葬於江魚之腹中
安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎
漁父莞爾而笑
鼓(木世=えい)而去/
乃歌曰
滄浪之水清兮
可以濯吾纓
滄浪之水濁兮
可以濯吾足
遂去不復與言
屈原 既に放たれて、江潭にあそび、
ゆくゆく沢畔に吟ず。
顔色 憔悴し形容 枯槁せり
漁父見て 之に問うて曰く、
子は三閭太夫にあらずや、
何の故にここに至れる。
屈原曰く
挙世 皆濁り、我、独り清めり。
衆人、皆酔い、我、独り醒めた
是(ここ)をもって放たれり。
漁父曰く
聖人は物に凝滞せずしてよく世と推移す。
世人皆濁らば、世人 其の泥をみだして
其の波を揚げざる。
衆人皆酔わば、何ぞ其の汁を啜(すす)らざる
何の故に深思高挙して、自ら放たれしむるを為すや。
屈原曰く
吾、之を聞く
新たに沐する者は必ず冠を弾き
新たに浴する者は必ず衣を振う と
いずくんぞ能く身の察察たるをもって、
物の紋紋たる者をうけんや。
寧ろ湘流に赴い、江魚の腹中に葬らるるも、
いずくんぞよく晧晧の白きを以って
世俗の塵埃を蒙らんや
漁父 莞爾として笑いえいを鼓して去る
乃ち歌って曰く
滄浪の水 清まば、
以って吾が纓(冠の紐)をあらうべし
滄浪の水 濁れば、
以って吾が足をあらうべし
遂に去ってまたともに言わず
【詳細訳】
屈原は放逐されて江や淵をさまよい、
詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。
顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。
一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。
「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。
どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」
屈原は言った。
「世の中はすべて濁っている中で、
私独りが澄んでいる。
人々すべて酔っている中で、
私独りが醒めている。
それゆえ追放されたのだ」
漁夫は言った。
「聖人は物事に拘らず、
世と共に移り変わると申します。
世人がすべて濁っているならば、
なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、
波をたてようとなされませぬ。
人々がみな酔っているなら、
なぜご自分もその酒かすをくらい、
糟汁までも啜ろうとなされませぬ。
なんでまたそのように深刻に思い悩み、
高尚に振舞って、
自ら追放を招くようなことをなさったのです」
屈原は言った。
「ことわざにいう
『髪を洗ったばかりの者は、
必ず冠の塵を払ってから被り、
湯浴みしたばかりの者は、
必ず衣服をふるってから着るものだ』と。
どうしてこの清らかな身に、
汚らわしきものを受けられよう。
いっそこの湘水の流れに身を投げて、
魚の餌食となろうとも、
どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」
漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。
「滄浪の水が澄んだのなら、
冠の紐を洗うがよい、
滄浪の水が濁ったのならば、
自分の泥足を洗うがよい」
そのまま姿を消して、彼らは再び語り合うことがなかった。
ここまで
こんな素晴らしい人物ではないことは百も承知なのですが、
参院選開票直後に公開されたまっこうさんのブログ記事を転載した
傘が無いだけなのだ。
の中の、最期の自分の決意と、ほんのすこ~しだけ似ているかなと、
錯覚してしまったのでした。
しかし、凄く大事なことを思い出させてもらえました。
本当に感謝です。
最期に以下の転載です。
時々日記 05年07月16日
【漁父辞~屈原に学ぶ~】~VOL.111~より引用
最近の私は、なぜか気力が伴っていない。
仕事にも遊びにも全力で取り組むといった感じではない。
あえて言うなら、醒めているといった方が的を射ているだろうか。
そうかといって、ダラダラ生きているのでもない。
打ち込める何かを求めて彷徨っているのが正解か。
ただ、こんな状態になっている原因は自分でも分かっている。
あと3年で会社人生のエンディングを迎えるが、今の私には
「あと3年もある」の考えが強い。
不満はあっても、それではイケないと思っている。
何とかして『も』を取り除く努力をしなければ・・・。
「あと3年ある」前向きな自分を早く取り戻したいものである。
私は今、中国歴史上の人物“屈原”から、
私自身の生き方を自問自答している。
「漁父辞」-渇しても盗泉の水は飲まず-
滄浪之水清兮 滄浪の水が清らかに澄んだときは
可以濯吾纓 自分の冠のひもを洗えばよい
滄浪之水濁兮 もし滄浪の水が濁ったときは
可以濯吾足 自分の足でも洗えばよい
屈原のような人は、いまでも少なくない。
有能で、理想家肌で、そしてまっすぐ正直に生きようとする。
そういう人にとって、この現代の濁世は、
真実、耐え難いものだろうと思う。
首脳部に命じられて、
汚れた仕事を当然のように押し付けられる企業の
社員のなかには、刑務所にはいったり、自殺したりする者もいる。
屈原は見事な人物である。
しかし、名もない漁師のふてぶてしい言葉にも、
この世に生きる者の、ある真実があるように思われてならない。
汚れて濁った水であっても、
自分の泥だらけの足を洗うには十分ではないか。
大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。
いや、濁っていることのほうがふつうかもしれない。
そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、
はたしてどうなのか。
なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。
「大河の一滴」五木寛之 ~一部抜粋~
私には屈原のような「すぐれた能力」、「正義感」、
「清廉潔白さ」は持ち合わせてはいない。
ただ単に、楽な方に身を委ねているだけだった。
『そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、
はたしてどうなのか。
なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。』
心揺さぶる一節である。
ここまで
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初めまして。
屈原の『漁父辞』のようなことありますからね。
したたかに、しぶとく、ときに狡猾に生きてください。
間違っている!と思っても、合格点をもらえる答案を書いてください。あからさまに先生に逆らってもいいことはありませんよ。
真面目で正義感の強い若者をからかったり、挑発したりする人もいるでしょうけど、負けないで、したたかにしぶとく生きてください。
2010-11-26 18:33 湧泉堂さん
つい先日、上のようなありがたいコメントを頂きました。
私は、
>屈原の『漁父辞』
について一切知らなかったので、検索してみたのですが、
すごく心に迫る漢詩だったのです。
以下に転載します。
漁父辞の屈原の生き方ってどんな生き方ですか?より引用
漁父辞の屈原の生き方ってどんな生き方ですか?
教えてください。
【漁父辞】
屈原既放
游於江潭
行吟澤畔
顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與
何故至於斯
屈原曰
與世皆濁
我独清
衆人皆酔
我独醒
是以見放
漁父曰
聖人不凝滞於物
而能與世推移
世人皆濁
何不乱其泥
而揚其波
衆人皆酔
何啜其汁
何故深思高挙
自令放為
屈原曰
吾聞之
新沐者必弾冠
新浴者必振衣
安能以身之察察
受物之紋紋者乎
寧赴湘流
葬於江魚之腹中
安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎
漁父莞爾而笑
鼓(木世=えい)而去/
乃歌曰
滄浪之水清兮
可以濯吾纓
滄浪之水濁兮
可以濯吾足
遂去不復與言
屈原 既に放たれて、江潭にあそび、
ゆくゆく沢畔に吟ず。
顔色 憔悴し形容 枯槁せり
漁父見て 之に問うて曰く、
子は三閭太夫にあらずや、
何の故にここに至れる。
屈原曰く
挙世 皆濁り、我、独り清めり。
衆人、皆酔い、我、独り醒めた
是(ここ)をもって放たれり。
漁父曰く
聖人は物に凝滞せずしてよく世と推移す。
世人皆濁らば、世人 其の泥をみだして
其の波を揚げざる。
衆人皆酔わば、何ぞ其の汁を啜(すす)らざる
何の故に深思高挙して、自ら放たれしむるを為すや。
屈原曰く
吾、之を聞く
新たに沐する者は必ず冠を弾き
新たに浴する者は必ず衣を振う と
いずくんぞ能く身の察察たるをもって、
物の紋紋たる者をうけんや。
寧ろ湘流に赴い、江魚の腹中に葬らるるも、
いずくんぞよく晧晧の白きを以って
世俗の塵埃を蒙らんや
漁父 莞爾として笑いえいを鼓して去る
乃ち歌って曰く
滄浪の水 清まば、
以って吾が纓(冠の紐)をあらうべし
滄浪の水 濁れば、
以って吾が足をあらうべし
遂に去ってまたともに言わず
【詳細訳】
屈原は放逐されて江や淵をさまよい、
詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。
顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。
一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。
「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。
どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」
屈原は言った。
「世の中はすべて濁っている中で、
私独りが澄んでいる。
人々すべて酔っている中で、
私独りが醒めている。
それゆえ追放されたのだ」
漁夫は言った。
「聖人は物事に拘らず、
世と共に移り変わると申します。
世人がすべて濁っているならば、
なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、
波をたてようとなされませぬ。
人々がみな酔っているなら、
なぜご自分もその酒かすをくらい、
糟汁までも啜ろうとなされませぬ。
なんでまたそのように深刻に思い悩み、
高尚に振舞って、
自ら追放を招くようなことをなさったのです」
屈原は言った。
「ことわざにいう
『髪を洗ったばかりの者は、
必ず冠の塵を払ってから被り、
湯浴みしたばかりの者は、
必ず衣服をふるってから着るものだ』と。
どうしてこの清らかな身に、
汚らわしきものを受けられよう。
いっそこの湘水の流れに身を投げて、
魚の餌食となろうとも、
どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」
漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。
「滄浪の水が澄んだのなら、
冠の紐を洗うがよい、
滄浪の水が濁ったのならば、
自分の泥足を洗うがよい」
そのまま姿を消して、彼らは再び語り合うことがなかった。
ここまで
こんな素晴らしい人物ではないことは百も承知なのですが、
参院選開票直後に公開されたまっこうさんのブログ記事を転載した
傘が無いだけなのだ。
の中の、最期の自分の決意と、ほんのすこ~しだけ似ているかなと、
錯覚してしまったのでした。
しかし、凄く大事なことを思い出させてもらえました。
本当に感謝です。
最期に以下の転載です。
時々日記 05年07月16日
【漁父辞~屈原に学ぶ~】~VOL.111~より引用
最近の私は、なぜか気力が伴っていない。
仕事にも遊びにも全力で取り組むといった感じではない。
あえて言うなら、醒めているといった方が的を射ているだろうか。
そうかといって、ダラダラ生きているのでもない。
打ち込める何かを求めて彷徨っているのが正解か。
ただ、こんな状態になっている原因は自分でも分かっている。
あと3年で会社人生のエンディングを迎えるが、今の私には
「あと3年もある」の考えが強い。
不満はあっても、それではイケないと思っている。
何とかして『も』を取り除く努力をしなければ・・・。
「あと3年ある」前向きな自分を早く取り戻したいものである。
私は今、中国歴史上の人物“屈原”から、
私自身の生き方を自問自答している。
「漁父辞」-渇しても盗泉の水は飲まず-
滄浪之水清兮 滄浪の水が清らかに澄んだときは
可以濯吾纓 自分の冠のひもを洗えばよい
滄浪之水濁兮 もし滄浪の水が濁ったときは
可以濯吾足 自分の足でも洗えばよい
屈原のような人は、いまでも少なくない。
有能で、理想家肌で、そしてまっすぐ正直に生きようとする。
そういう人にとって、この現代の濁世は、
真実、耐え難いものだろうと思う。
首脳部に命じられて、
汚れた仕事を当然のように押し付けられる企業の
社員のなかには、刑務所にはいったり、自殺したりする者もいる。
屈原は見事な人物である。
しかし、名もない漁師のふてぶてしい言葉にも、
この世に生きる者の、ある真実があるように思われてならない。
汚れて濁った水であっても、
自分の泥だらけの足を洗うには十分ではないか。
大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。
いや、濁っていることのほうがふつうかもしれない。
そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、
はたしてどうなのか。
なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。
「大河の一滴」五木寛之 ~一部抜粋~
私には屈原のような「すぐれた能力」、「正義感」、
「清廉潔白さ」は持ち合わせてはいない。
ただ単に、楽な方に身を委ねているだけだった。
『そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、
はたしてどうなのか。
なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。』
心揺さぶる一節である。
ここまで
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