731部隊とエイズとの関係 その2~赤い血の陰謀・生き残った731~
非常に分かりやすい文章を見つけましたのでご紹介します。
エイズと731部隊 より転載開始
エイズと731部隊
2008/02/03 07:23
米国の生物兵器開発に少なからず日本の731部隊が関わっていたのではないか?
こんな疑問から、ネットで調べていたら、次のような記事を見つけました。
なお、これはほんの一部です。アドレスを表記いたしましたので、興味のある方はそちらをクリックしてください。
(以下引用)
■09-1:HIV/実験と癒着関係■
◇09:HIV/実験と癒着関係◆初期のファイル:09-4/09-3/09-2/09-1◆
世界の中心や日本の中心に、人格高潔な人間が存在しているという一般的な世界観は『空想』でしかない。
『帝国陸軍細菌戦731部隊』
1932年:「防疫研究室」設置(後の細菌戦部隊中枢機関)。
1933年:「加茂部隊」発足(731部隊の前身)。
1941年8月:「満州731部隊」に改名。
『日本ブラッドバンク/ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)』
創設者:「内藤良一」元軍医中佐(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)
1950年11月:厚生省(現:厚生労働省)、日本赤十字、GHQに働きかけて、「日本ブラッドバンク」が設立される。
「宮本光一(日本特珠工業社長、陶器製爆弾、石井式濾水器製作)」「北野政次(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)」「二木秀雄(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)」が協力して設立される。
731部隊時に開発(1943年から開始)された乾燥血しょう(内藤良一は、乾燥血しょうを作るための凍結真空乾燥という技術を持っていた。この凍結真空乾燥という技術は、細菌を粉末状態にする特別な技術であり、細菌を長持ちさせることが可能で、これを爆弾に詰めて落とす「細菌戦」を可能にする)などの技術を朝鮮戦争時にアメリカ軍へ売り込んでばく大な利益を得た。
1954年:「血液製剤」を薬と同じように、健康保険の対象にすることに成功する。
1964年:駐日アメリカ大使が刺される事件が発生。その時の輸血で肝炎に感染する事故が起きる。そして保存血液以外の「血液製剤」が、民間企業によって作られることになる。
1964年:「ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)」に改名する。同年アメリカに子会社「アルファ社」を設立する。日本国内で最大規模を誇る大企業へと変貌していく。
『731部隊関係者の力によって作られた血液産業企業』
「日本ブラッドバンク/ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)」「日本製薬」「熊本化血研(ワクチン産業)」など。
『戦後の731部隊と被爆者及びその家族』
1947年:アメリカの要請により「予研(国立予防衛生研究所)」(フォート・デトリックと病原ウイルス研究分野で極秘関係にある)を設立。メンバーは、「731部隊出身者」や「東京大学伝染病研究所出身者」で占められた。予研は病原体とワクチンの研究目的が表面上の名目あったが「生物製剤品質管理」もすべて任されていた。
秘密裏に、アメリカの管理下にある広島と長崎の「原爆傷害調査委員会(ABCC)」に協力していた。予研もABCCも被爆者の治癒が目的ではなく、被爆者の肉体と精神の障害に関する経過状況の研究だけが目的であった。予研設立当時の副所長である「帝国陸軍細菌戦1644部隊(細菌戦人体実験部隊)」の「小島三郎」は「この好機を逸すべきでないということは、等しく職者の考えたことである」と語っている。
被爆者はABCCの診察を強要され、その家族は検屍解剖を強制的に承認させられた。被爆者もその家族も最後の最後まで、人間として扱われることがなかった。
臨床試験された新薬を認可する「現:厚生労働省」と、その安全性を検査する「予研」が、「製薬メーカー」と癒着関係にあり、特効薬が開発された場合でも、簡単に発表されることはない。
1976年:「厚生省」は、副作用のある抗ガン剤は簡単に認めながら、副作用がない「丸山ワクチン」に対しては「臨床試験の結果、有効性がない」としてかたくなに承認していない。
現在は、患者からの強い要望で「無期限延長の有償治験薬」として使われている。
1983年3月:「厚生省」と「予研」は、すでにアメリカで投与が使用禁止されている「HIV汚染の非加熱製剤」を、「1985年7月までの2年4カ月間」使用し続けてエイズを感染させた。再三に渡るアメリカからの警告を無視した上に、販売を最優先して「2000人」以上の血友病患者の命とその家族の人生を奪い取った。政府が行った人体実験の内の1つ(秘密裏にアメリカからの使用継続指示があったことは間違いない)であり、この日本にエイズを広めたのは、厚生省・予研・血液製剤会社、そしてアメリカである。
1990年:副作用が強い「AZT・DDI・DDC」などの抗HIV剤は簡単に承認されたが、ケニアで投与されたエイズ特効薬の「ケムロン(低用量経口インターフェロンα)」が、目覚ましい治療効果(HIVの消失)があったにもかかわらず、ケニア以外の国では封殺されたままである。
1993年:ケムロン臨床試験を認可していた「WHO(世界保健機関)」は、突然「効力なし」と発表。
1997年:ケムロン臨床試験を認可していた「NIH(米国立衛生研究所)」も、突然「研究終了」を発表。これ以降も「新薬承認」されていないままである。
(引用おわり)
http://www9.plala.or.jp/rescue/09-1.html
(感想)
癌治療薬の丸山ワクチンやエイズ治療薬ケムロンが承認されない理由がどこにあるか考えてみるのも面白いと思います。なんとなく、想像がつきますよね。
ここまで
続いて石井四朗についての考察文を転載します。
731部隊石井四郎軍医中将と、
薬害エイズのミドリ十字社の奇妙な接点 より転載
2007/5/21(月) 午後 4:04

石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。千葉県加茂出身。 731部隊の創設者として知られる。2003年、石井本人が1945年に書いた大学ノート二冊に及ぶ「終戦メモ」がジャーナリスト青木冨貴子によって発見された。
略歴
1920年(大正9年)3月、京都帝国大学医学部卒業。陸軍軍医候補生志願。
1921年(大正10年) 陸軍軍医中尉(二等軍医)となる。東京第一陸軍病院に軍医として勤務。
1924年(大正13年) - 1926年(大正15年)京都帝国大学で大学院生として細菌学、衛生学、病理学を研究。
1925年(大正14年)陸軍軍医大尉(一等軍医)に昇進。
1927年(昭和2年)6月、「グラム陽性雙球菌に就ての研究」により博士号(医学博士)を取得。京都衛戍病院勤務となる。この年、京都帝国大学総長、荒木寅三郎の娘、清子と結婚する。
1928年(昭和3年)4月 - 1930年(昭和5年)4月 、海外視察。
1930年(昭和5年)末 、海外視察修了・帰国する。
1931年(昭和6年)1月、陸軍軍医少佐(三等軍医正)に昇進。陸軍軍医学校教官に任命される。1925年の「ジュネーブ議定書」(生物化学兵器の禁止)に着目し、細菌戦部隊の創設を提唱。
1932年(昭和7年)1月、「石井式細菌培養缶」を開発。この特許を申請。翌年に認められる。4月、陸軍軍医学校防疫部の地下室に「防疫研究室」を設立。「石井式濾水機」の試作品が完成。8月、満州へ出張。ハルビン市背陰河東方数十キロの田舎に細菌兵器防衛研究所の設立開始。機密保持上、研究所は東郷部隊の暗号名で呼ばれ、石井は氏名を東郷と名乗る。
1933年(昭和8年)3月、陸軍軍医学校において細菌学を教育する。9月30日~1934年(昭和9年)3月30日までの半年間、再び満州に滞在。
1935年(昭和10年)陸軍軍医中佐(二等軍医正)に昇進。
1936年(昭和11年)東郷部隊が天皇の認可により、正式な部隊(皇軍)となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫給水部を編成。旧日本軍の習慣によって部隊長の名を冠した「石井部隊」の通称名で呼ばれる。
1938年(昭和13年)8月、陸軍軍医大佐(一等軍医正)に昇進。
1939年(昭和14年)5月11日、ノモンハン事変勃発により、野戦防疫給水部長として出動。10月1日、ノモンハンでの石井部隊の防疫成果が認められ、関東軍より感状が授与される。石井は功四級金鵄勲章と陸軍技術有功賞を授章する。
1941年(昭和16年)3月、陸軍軍医少将に昇進。4月、部隊名を秘匿名、「満州第731部隊」と改める。
1942年(昭和17年)8月1日、南京の山東省第一軍軍医部へ派遣され、関東軍防疫給水部を離れる。
1943年(昭和18年)8月、陸軍軍医学校附として東京に帰還。
1945年(昭和20年)3月、陸軍軍医中将に昇進。関東軍防疫給水部長に再度就任。5月、終戦直前に満洲第731部隊を「満洲第25202部隊」と改称する。8月、ソ連軍の侵攻によりハルピンを脱出し帰国。11月10日、千葉県山武郡芝山町にて石井の偽装葬儀が行なわれる。戦後、東京都新宿区若松町で旅館を経営。極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦犯容疑を受けるが、米軍に研究資料を提供したため、訴追を免れたとされる。
1959年(昭和34年)10月9日、喉頭癌のため国立東京第一病院で死去。 享年67歳。葬儀委員長は一時期、関東軍防疫給水部長に就任した北野政次が務め、墓は河田町月桂寺に建てられる。
石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の研究者は、国内の最高学府を卒業した者が多かった。これらの研究者のほとんどは戦後になって大学医学部へと戻り、日本の医学会において重鎮となった為、医学会には731部隊についてタブー視する傾向が強かったが、近年になり旧幹部の引退などに伴い除々に弱まって来ている。また、薬害エイズ事件において被告となった企業ミドリ十字の創始者は石井四郎の片腕、内藤良一であり、731部隊隊長を一時務めた北野政次を顧問としていた。
731部隊で行われたとされる各種の人体実験は、しばしばナチスドイツのユダヤ人強制収容所で行われたドイツ人医師による人体実験と並んで語られれることがある。確かに、生体実験と言う残虐な犯罪を行い、倫理的障害を選民思想によって取り除いていたという観点では両者には差はみられない。
なお、人体実験について、は昨年年末に英国BBC放送が日本で旧日本海軍の軍医が、フィリピンで30体ほどの生体解剖実験を行ったという証言をスクープしている。元軍医は90歳近いが、もし命令を拒否すれば私は生きはおれなかっただろう、生きているフィリピンの住民をメスやノコギリで切り刻むのは正常な神経ではできないことですと、BBC記者に語っている。石井部隊は陸軍だが海軍にも生体解剖実験を行う組織が存在した、これは日本軍全体の組織の体質を表しているが、東京裁判では戦争犯罪としては誰も裁かれてはいない。
2003年(平成15年)ジャーナリスト青木冨貴子により、石井本人が1945年に書いた大学ノート二冊に及ぶ「終戦メモ」が発見される。
薬害エイズ事件の概要
AIDSとは、エイズAIDS(後天的免疫不全症候群)は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染したために身体の免疫機能が損なわれ、通常は身体に害を及ぼさない各種のウイルスや細菌、真菌などに感染する(日和見感染)ことによって身体機能が低下し、やがては死に至る病気である。
主な感染経路は、同性・異性との性的接触であるが、HIV感染者の母親からの出産時あるいは母乳を介しての感染や、注射針からの感染も存在する。しかし、通常の日常生活においては、感染の可能性はほとんどない。
今日ではHIVの活動を抑える各種の薬剤が開発され、また日和見感染の原因を個別に押さえ込むことが一部できるようになったために、HIV感染後およびAIDS発症後の生存期間は顕著に延びている。しかし、まだHIVを克服するにはいたっていない。また、世界的にはアフリカおよびアジア諸国の大流行が各国の社会に大きな影響を与えてまた、日本でも若年層の感染の増大が報告されている。
薬害エイズとは、日本では、USAで問題になった同性間の性交渉や麻薬の回しうちによる感染はほとんどなかったが、血液製剤を介しての感染被害が多数にのぼった。すなわち、主に血友病の患者が出血を止めるあるいは予防するための特効薬として用いられた血液製剤(非加熱製剤)のなかにHIVが含まれていたために、全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約400人以上がすでに死亡しているといわれる。
薬害エイズの何が問題か、血液製剤を介した薬害エイズは、サリドマイドやキノホルム中毒(スモン)、薬害ヤコブ病と同様に、国や製薬企業が適切な対策をとらなかったために拡大した。1人ないし2人分の国内産血液からつくるクリオ製剤を用いる、非加熱製剤を速やかに回収し加熱製剤に切り替える、などの対策を早期にとっていれば、HIV感染の拡大は防ぐことができたのである。ところが、数千人の血液を混ぜ合わせてつくる非加熱血液製剤の危険性がUSAで明らかになってからも、医師はその危険性を患者に告知せず、製薬企業も漫然と輸入と販売を続け、厚生省はなんの対策もとらなかった。
そもそも日本は、人口に比べて世界の血液製剤消費に占める割合が高く、安易にこれを消費する傾向がった。その結果として、血友病だけでなく各種の病気や手術後の出血予防に血液製剤を投与し、HIV感染被害を出すことになったのでである(いわゆる感染の「第四ルート」)。
医師が感染を患者に告知しなかったために、患者の配偶者などに二次感染が生じたことも大きな問題であった。加えて、エイズはその症状がきわめて激しく、当初は感染して数年以内に死亡することが多かったために、HIV感染者たちは厳しい差別にさらされることになった。
薬害エイズの被害者たちは、前記の薬害被害者と同様に、この国の薬害を生む構造の被害者なのであり、被害のつど「薬害根絶」が叫ばれながらこのような大きな被害をもたらしたことに、日本の薬事行政や製薬産業、そして日本社会の構造的な問題が表れているといえよう。
この結果、薬害エイズは、薬害として始めて血友病の専門医や厚生省の責任者、および企業の経営者が刑事責任を問われる事件になったのである。
ここまで
どこまでも赤~くどろどろとした陰謀が
存在していたことは確かなようです。
このシリーズは転載中心ですが、まだまだ続きます。
溢れる情報の中から少しでも真相に迫った情報を発見出来たらと思っております。
記録として参考にして下さい。
また、グラクソとの関わりは今回は明記されてはいませんでしたが、
現在まで731の研究が引き継がれてしまっていることを忘れてはなりません。
日本が先進国の中でなぜ
いまだにHIVに感染する割合が高いのか。
まさにその質問が「陰謀の存在」を語っているのです。
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エイズと731部隊 より転載開始
エイズと731部隊
2008/02/03 07:23
米国の生物兵器開発に少なからず日本の731部隊が関わっていたのではないか?
こんな疑問から、ネットで調べていたら、次のような記事を見つけました。
なお、これはほんの一部です。アドレスを表記いたしましたので、興味のある方はそちらをクリックしてください。
(以下引用)
■09-1:HIV/実験と癒着関係■
◇09:HIV/実験と癒着関係◆初期のファイル:09-4/09-3/09-2/09-1◆
世界の中心や日本の中心に、人格高潔な人間が存在しているという一般的な世界観は『空想』でしかない。
『帝国陸軍細菌戦731部隊』
1932年:「防疫研究室」設置(後の細菌戦部隊中枢機関)。
1933年:「加茂部隊」発足(731部隊の前身)。
1941年8月:「満州731部隊」に改名。
『日本ブラッドバンク/ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)』
創設者:「内藤良一」元軍医中佐(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)
1950年11月:厚生省(現:厚生労働省)、日本赤十字、GHQに働きかけて、「日本ブラッドバンク」が設立される。
「宮本光一(日本特珠工業社長、陶器製爆弾、石井式濾水器製作)」「北野政次(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)」「二木秀雄(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)」が協力して設立される。
731部隊時に開発(1943年から開始)された乾燥血しょう(内藤良一は、乾燥血しょうを作るための凍結真空乾燥という技術を持っていた。この凍結真空乾燥という技術は、細菌を粉末状態にする特別な技術であり、細菌を長持ちさせることが可能で、これを爆弾に詰めて落とす「細菌戦」を可能にする)などの技術を朝鮮戦争時にアメリカ軍へ売り込んでばく大な利益を得た。
1954年:「血液製剤」を薬と同じように、健康保険の対象にすることに成功する。
1964年:駐日アメリカ大使が刺される事件が発生。その時の輸血で肝炎に感染する事故が起きる。そして保存血液以外の「血液製剤」が、民間企業によって作られることになる。
1964年:「ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)」に改名する。同年アメリカに子会社「アルファ社」を設立する。日本国内で最大規模を誇る大企業へと変貌していく。
『731部隊関係者の力によって作られた血液産業企業』
「日本ブラッドバンク/ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)」「日本製薬」「熊本化血研(ワクチン産業)」など。
『戦後の731部隊と被爆者及びその家族』
1947年:アメリカの要請により「予研(国立予防衛生研究所)」(フォート・デトリックと病原ウイルス研究分野で極秘関係にある)を設立。メンバーは、「731部隊出身者」や「東京大学伝染病研究所出身者」で占められた。予研は病原体とワクチンの研究目的が表面上の名目あったが「生物製剤品質管理」もすべて任されていた。
秘密裏に、アメリカの管理下にある広島と長崎の「原爆傷害調査委員会(ABCC)」に協力していた。予研もABCCも被爆者の治癒が目的ではなく、被爆者の肉体と精神の障害に関する経過状況の研究だけが目的であった。予研設立当時の副所長である「帝国陸軍細菌戦1644部隊(細菌戦人体実験部隊)」の「小島三郎」は「この好機を逸すべきでないということは、等しく職者の考えたことである」と語っている。
被爆者はABCCの診察を強要され、その家族は検屍解剖を強制的に承認させられた。被爆者もその家族も最後の最後まで、人間として扱われることがなかった。
臨床試験された新薬を認可する「現:厚生労働省」と、その安全性を検査する「予研」が、「製薬メーカー」と癒着関係にあり、特効薬が開発された場合でも、簡単に発表されることはない。
1976年:「厚生省」は、副作用のある抗ガン剤は簡単に認めながら、副作用がない「丸山ワクチン」に対しては「臨床試験の結果、有効性がない」としてかたくなに承認していない。
現在は、患者からの強い要望で「無期限延長の有償治験薬」として使われている。
1983年3月:「厚生省」と「予研」は、すでにアメリカで投与が使用禁止されている「HIV汚染の非加熱製剤」を、「1985年7月までの2年4カ月間」使用し続けてエイズを感染させた。再三に渡るアメリカからの警告を無視した上に、販売を最優先して「2000人」以上の血友病患者の命とその家族の人生を奪い取った。政府が行った人体実験の内の1つ(秘密裏にアメリカからの使用継続指示があったことは間違いない)であり、この日本にエイズを広めたのは、厚生省・予研・血液製剤会社、そしてアメリカである。
1990年:副作用が強い「AZT・DDI・DDC」などの抗HIV剤は簡単に承認されたが、ケニアで投与されたエイズ特効薬の「ケムロン(低用量経口インターフェロンα)」が、目覚ましい治療効果(HIVの消失)があったにもかかわらず、ケニア以外の国では封殺されたままである。
1993年:ケムロン臨床試験を認可していた「WHO(世界保健機関)」は、突然「効力なし」と発表。
1997年:ケムロン臨床試験を認可していた「NIH(米国立衛生研究所)」も、突然「研究終了」を発表。これ以降も「新薬承認」されていないままである。
(引用おわり)
http://www9.plala.or.jp/rescue/09-1.html
(感想)
癌治療薬の丸山ワクチンやエイズ治療薬ケムロンが承認されない理由がどこにあるか考えてみるのも面白いと思います。なんとなく、想像がつきますよね。
ここまで
続いて石井四朗についての考察文を転載します。
731部隊石井四郎軍医中将と、
薬害エイズのミドリ十字社の奇妙な接点 より転載
2007/5/21(月) 午後 4:04

石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。千葉県加茂出身。 731部隊の創設者として知られる。2003年、石井本人が1945年に書いた大学ノート二冊に及ぶ「終戦メモ」がジャーナリスト青木冨貴子によって発見された。
略歴
1920年(大正9年)3月、京都帝国大学医学部卒業。陸軍軍医候補生志願。
1921年(大正10年) 陸軍軍医中尉(二等軍医)となる。東京第一陸軍病院に軍医として勤務。
1924年(大正13年) - 1926年(大正15年)京都帝国大学で大学院生として細菌学、衛生学、病理学を研究。
1925年(大正14年)陸軍軍医大尉(一等軍医)に昇進。
1927年(昭和2年)6月、「グラム陽性雙球菌に就ての研究」により博士号(医学博士)を取得。京都衛戍病院勤務となる。この年、京都帝国大学総長、荒木寅三郎の娘、清子と結婚する。
1928年(昭和3年)4月 - 1930年(昭和5年)4月 、海外視察。
1930年(昭和5年)末 、海外視察修了・帰国する。
1931年(昭和6年)1月、陸軍軍医少佐(三等軍医正)に昇進。陸軍軍医学校教官に任命される。1925年の「ジュネーブ議定書」(生物化学兵器の禁止)に着目し、細菌戦部隊の創設を提唱。
1932年(昭和7年)1月、「石井式細菌培養缶」を開発。この特許を申請。翌年に認められる。4月、陸軍軍医学校防疫部の地下室に「防疫研究室」を設立。「石井式濾水機」の試作品が完成。8月、満州へ出張。ハルビン市背陰河東方数十キロの田舎に細菌兵器防衛研究所の設立開始。機密保持上、研究所は東郷部隊の暗号名で呼ばれ、石井は氏名を東郷と名乗る。
1933年(昭和8年)3月、陸軍軍医学校において細菌学を教育する。9月30日~1934年(昭和9年)3月30日までの半年間、再び満州に滞在。
1935年(昭和10年)陸軍軍医中佐(二等軍医正)に昇進。
1936年(昭和11年)東郷部隊が天皇の認可により、正式な部隊(皇軍)となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫給水部を編成。旧日本軍の習慣によって部隊長の名を冠した「石井部隊」の通称名で呼ばれる。
1938年(昭和13年)8月、陸軍軍医大佐(一等軍医正)に昇進。
1939年(昭和14年)5月11日、ノモンハン事変勃発により、野戦防疫給水部長として出動。10月1日、ノモンハンでの石井部隊の防疫成果が認められ、関東軍より感状が授与される。石井は功四級金鵄勲章と陸軍技術有功賞を授章する。
1941年(昭和16年)3月、陸軍軍医少将に昇進。4月、部隊名を秘匿名、「満州第731部隊」と改める。
1942年(昭和17年)8月1日、南京の山東省第一軍軍医部へ派遣され、関東軍防疫給水部を離れる。
1943年(昭和18年)8月、陸軍軍医学校附として東京に帰還。
1945年(昭和20年)3月、陸軍軍医中将に昇進。関東軍防疫給水部長に再度就任。5月、終戦直前に満洲第731部隊を「満洲第25202部隊」と改称する。8月、ソ連軍の侵攻によりハルピンを脱出し帰国。11月10日、千葉県山武郡芝山町にて石井の偽装葬儀が行なわれる。戦後、東京都新宿区若松町で旅館を経営。極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦犯容疑を受けるが、米軍に研究資料を提供したため、訴追を免れたとされる。
1959年(昭和34年)10月9日、喉頭癌のため国立東京第一病院で死去。 享年67歳。葬儀委員長は一時期、関東軍防疫給水部長に就任した北野政次が務め、墓は河田町月桂寺に建てられる。
石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の研究者は、国内の最高学府を卒業した者が多かった。これらの研究者のほとんどは戦後になって大学医学部へと戻り、日本の医学会において重鎮となった為、医学会には731部隊についてタブー視する傾向が強かったが、近年になり旧幹部の引退などに伴い除々に弱まって来ている。また、薬害エイズ事件において被告となった企業ミドリ十字の創始者は石井四郎の片腕、内藤良一であり、731部隊隊長を一時務めた北野政次を顧問としていた。
731部隊で行われたとされる各種の人体実験は、しばしばナチスドイツのユダヤ人強制収容所で行われたドイツ人医師による人体実験と並んで語られれることがある。確かに、生体実験と言う残虐な犯罪を行い、倫理的障害を選民思想によって取り除いていたという観点では両者には差はみられない。
なお、人体実験について、は昨年年末に英国BBC放送が日本で旧日本海軍の軍医が、フィリピンで30体ほどの生体解剖実験を行ったという証言をスクープしている。元軍医は90歳近いが、もし命令を拒否すれば私は生きはおれなかっただろう、生きているフィリピンの住民をメスやノコギリで切り刻むのは正常な神経ではできないことですと、BBC記者に語っている。石井部隊は陸軍だが海軍にも生体解剖実験を行う組織が存在した、これは日本軍全体の組織の体質を表しているが、東京裁判では戦争犯罪としては誰も裁かれてはいない。
2003年(平成15年)ジャーナリスト青木冨貴子により、石井本人が1945年に書いた大学ノート二冊に及ぶ「終戦メモ」が発見される。
薬害エイズ事件の概要
AIDSとは、エイズAIDS(後天的免疫不全症候群)は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染したために身体の免疫機能が損なわれ、通常は身体に害を及ぼさない各種のウイルスや細菌、真菌などに感染する(日和見感染)ことによって身体機能が低下し、やがては死に至る病気である。
主な感染経路は、同性・異性との性的接触であるが、HIV感染者の母親からの出産時あるいは母乳を介しての感染や、注射針からの感染も存在する。しかし、通常の日常生活においては、感染の可能性はほとんどない。
今日ではHIVの活動を抑える各種の薬剤が開発され、また日和見感染の原因を個別に押さえ込むことが一部できるようになったために、HIV感染後およびAIDS発症後の生存期間は顕著に延びている。しかし、まだHIVを克服するにはいたっていない。また、世界的にはアフリカおよびアジア諸国の大流行が各国の社会に大きな影響を与えてまた、日本でも若年層の感染の増大が報告されている。
薬害エイズとは、日本では、USAで問題になった同性間の性交渉や麻薬の回しうちによる感染はほとんどなかったが、血液製剤を介しての感染被害が多数にのぼった。すなわち、主に血友病の患者が出血を止めるあるいは予防するための特効薬として用いられた血液製剤(非加熱製剤)のなかにHIVが含まれていたために、全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約400人以上がすでに死亡しているといわれる。
薬害エイズの何が問題か、血液製剤を介した薬害エイズは、サリドマイドやキノホルム中毒(スモン)、薬害ヤコブ病と同様に、国や製薬企業が適切な対策をとらなかったために拡大した。1人ないし2人分の国内産血液からつくるクリオ製剤を用いる、非加熱製剤を速やかに回収し加熱製剤に切り替える、などの対策を早期にとっていれば、HIV感染の拡大は防ぐことができたのである。ところが、数千人の血液を混ぜ合わせてつくる非加熱血液製剤の危険性がUSAで明らかになってからも、医師はその危険性を患者に告知せず、製薬企業も漫然と輸入と販売を続け、厚生省はなんの対策もとらなかった。
そもそも日本は、人口に比べて世界の血液製剤消費に占める割合が高く、安易にこれを消費する傾向がった。その結果として、血友病だけでなく各種の病気や手術後の出血予防に血液製剤を投与し、HIV感染被害を出すことになったのでである(いわゆる感染の「第四ルート」)。
医師が感染を患者に告知しなかったために、患者の配偶者などに二次感染が生じたことも大きな問題であった。加えて、エイズはその症状がきわめて激しく、当初は感染して数年以内に死亡することが多かったために、HIV感染者たちは厳しい差別にさらされることになった。
薬害エイズの被害者たちは、前記の薬害被害者と同様に、この国の薬害を生む構造の被害者なのであり、被害のつど「薬害根絶」が叫ばれながらこのような大きな被害をもたらしたことに、日本の薬事行政や製薬産業、そして日本社会の構造的な問題が表れているといえよう。
この結果、薬害エイズは、薬害として始めて血友病の専門医や厚生省の責任者、および企業の経営者が刑事責任を問われる事件になったのである。
ここまで
どこまでも赤~くどろどろとした陰謀が
存在していたことは確かなようです。
このシリーズは転載中心ですが、まだまだ続きます。
溢れる情報の中から少しでも真相に迫った情報を発見出来たらと思っております。
記録として参考にして下さい。
また、グラクソとの関わりは今回は明記されてはいませんでしたが、
現在まで731の研究が引き継がれてしまっていることを忘れてはなりません。
日本が先進国の中でなぜ
いまだにHIVに感染する割合が高いのか。
まさにその質問が「陰謀の存在」を語っているのです。
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