「普通がいい」という病~この世はすべて“ごっこ”である~
![]() | 「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) (2006/10/21) 泉谷 閑示 商品詳細を見る |
皆さんに是非読んでもらいたい本があります。
とても考えさせられます。
一体、私たちが日常的に使う「普通」とは何か。
それについての話ですね。
この世は元々狂っていますから、
何かと「異常」を作りだして、
人を不安に陥れ、そういうことをして儲かっている訳です。
つまるところそれは、世界の陰謀とその構図を考えるにあたって重要な視点です。
この世界は演出と仄めかしばかりのごっこ遊びの世界です。
みんな何かを演じている。
演じなければ生きていけない世界になっている。
医者は医者を、政治家は政治家を、裁判官は裁判官を。
「普通であること」に意味を求めず、価値を見出さない
(普通であることに理由を求めない)のは、
人が生きているというだけではそれがビジネスにならないから、
人の命を商品化しようとする人にとって不都合だからにすぎない。
しかしよく考えてみてほしい。
自分という命を生まれてから今日まで守ってくれた存在は何か。
もちろん、国家などではないはずである。
国家の起こす茶番である計画的な戦争と云うものは
国民の命を商品化することによって成り立っているのである。
私はそんな国家に感謝など出来るはずもない。
生きているというだけで、価値があること。
それを多くの人に伝えていきたいと思う。
何かの役に立つとか社会に出て働かねばとか言いますけど、
玉蔵さんのおっしゃるように、別に大したことないでしょう。
食べて生きていければよいのです。
その上に成り立っているごっこ遊びをこれ以上正当化させる必要なんてないんですよ。
だって銀行だってそうでしょう。
通帳に100万円と書くだけでそこに本当は無いお金が出来あがるというのですから。
ここで一部本文から引用です。
52ページ(「現実」とは?)より引用開始
ある方が、「40歳の誕生日が来て、年齢とともにいろいろなものが失われていく感じがして、とても焦りを感じるんです」と言われました。そして、「40歳を過ぎてまで生きるとは思っていなかったから、これから先のイメージが持てない」ともおっしゃった。そこで私は、「それじゃあ、これから先はオマケみたいなものですね。オマケの人生だとすれば、保守的に考えずに、どうせオマケなんだから自由に生きてみようと考えたらいかがですか?」という話をした。そうしたらその方は、「自分でもそういうふうに考えようとしたんだけれど、自分の頭が、そんな考えは現実逃避じゃないかと言ってくる。40歳という現実を見ない現実逃避じゃないかと」とおっしゃった。そこで私は、「その『現実』って、何でしょうね?」と問いを繰り返したことがあります。
私たちはこのようによく、「現実逃避」という言葉を使ったり、「でも現実は・・・」といった言い方をしたりします。
しかし、私にはその言葉がどうにも引っかかってならない。「現実」という言葉がこういう使われ方をするときには、必ず大切な何かが台無しにされる感じがある。「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実を見ろよ!」と云うようなことを言われると、水をかけられ、シュンとした感じになる。これも、「言葉の手垢」が「現実」という言葉のまわりにベッタリとくっついているからなのです。
変な話かもしれませんが、私の大好きだった祖父が亡くなりそのお骨を拾った時、何かホットしたような不思議な感じを覚えたことがあります。これはまったく予想しなかった気持ちでした。焼かれて出てきたお骨を見て、「どんな人間も、この宇宙の壮大な時間の中では、ごくごく小さな点にもならないせいぜい100年足らずの命なのだ」と思ったのです。その壮大な宇宙の時間の中にある時出現し、そしてある時消えていく人間。その中でどう生きたにせよ、最後はこのようにしてわずかなカルシウムと燐の固まりになって、そして土に還っていくのだ、ということを思ったのです。
そんなふうに考えたときに、なぜそこまでみな「現実」が大事だと言うのだろう、という疑問がわいてきたのです。よくよく考えてみれば、お金にしても「これは100円ということにしましょう。これは1万円ということにしましょう」という、誰かが人為的に決めたルールによって成り立っているに過ぎないのが「現実」であって、それは例えば、ままごとの子供銀行のお金と変わらない。社会的役割にしてみたところで、飲み屋へ行って、「俺は○○会社の部長だ」とか息巻いている人も、ただの一人の酔っ払いの男であることに変わりはない。会社の中では部長さんとして「偉い」のでしょうけれども、その「偉い」ということも、ある限られた社会の中でのみ通用するファンタジーに基づいているわけです。
つまり、「現実」と呼ばれているのも、一皮むけば、どれも「ごっこ」の世界なのです。せいぜい子供銀行ごっこと、日本銀行ごっこの違いでしかない。そう考えてくると、現実/非現実という線引きにどこまでゆるぎない根拠があるのか、その線引きにはどれ程の意味があるのだろうかと疑問に思えてきます。
私たちが絵を見たり、お芝居を見に行ったり、音楽を聴いたり、お化粧して出かけておいしいものを食べたりして、「ああ気持ち良い」と感じる時に私たちに働きかけたのは、果たして「現実」なのでしょうか。クリスマスという行事にしても、サンタクロースというファンタジーを取り去ってしまったら、行事自体が成り立たない。「サンタはいない」と言っている「現実」的な人が、クリスマスという行事だけは楽しんでいたりしますが。
つまり、われわれが「現実」と呼んでいるのも、実のところ、数あるファンタジーの中のひとつに過ぎないのです。より多くの人が信奉しているファンタジーが「現実」として特別扱いをされているに過ぎないわけです。私たちは、どこかでこのことに目覚めていなければなりません。
ここまで
いかがでしょうか。
私たちがなんとか成り立たせているこのごっこの世界も、
一部の人間だけに通用するファンタジーだということです。
精神病を作りだす人たちも同じです。
それこそが、「普通」とか、「一般」とか、「常識」という通念を
まかりとおそうとしている世界の正体なのです。
自由と民主主義だって同じことです。
全ては演出された幻想なのです。
http://newmoon555.jugem.jp/?search=%A1%D8%A1%D6%C9%E1%C4%CC%A4%AC%A4%A4%A4%A4%A1%D7%A4%C8%A4%A4%A4%A6%C9%C2%A1%D9より局所引用(孫引き)
精神病をつくりだしている澄みきった世界では、もはや現代人は狂人と交流してはいない。すなわち、一方には理性の人が存在し、狂気にむかって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係を認めない。他方には狂気の人が存在し、やはり同じく抽象的な理性、つまり秩序・身体的で精神的な拘束・集団による無名の圧力・順応性の要求たる理性を介してしか理性の人と交流を持たない。両者のあいだには共通な言語は存在しない、むしろもはや存在しないのである。十八世紀末に狂気が精神病として制定されてしまうと、両者の対話の途絶は確定事実にされ、区別は既成事実になり、狂気と理性の交換が営まれていたところの、一定の統辞法を欠く、つぶやき気味のあの不完全な言葉のすべてが忘却の淵にしずめられた。狂気についての理性の側の独白(モノローグ)にほかならぬ精神医学の言語は、その基礎には上述の沈黙しかもちえなかった。
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』田村俶訳 P.8
「狂気についての理性の側の独白(モノローグ)にほかならぬ精神医学の言語」とありますが、これはつまり、「自分は左側に足を置いていると思っていて、右側を単に病気とか狂気とか見るような精神医学は、独り言のように無意味なことばかり言っている」と言っているわけです。なかなか手厳しい言葉ですが、本当にそうだなと私も思います。
泉谷閑示『普通がいいという病』P.17
マジョリティの大通りは、不自然で窮屈な道です。人間はそれぞれユニークな存在なのですから、本来一万人いたら一万通りの道なき道があるはずです。にもかかわらず、大勢の人が通る大通りというものがあること自体、とても不自然なことです。
大通りを歩くということは、いろんなことを諦めたり、感じないように麻痺していたり、すなわち去勢された状態で歩いているということです。そうでもなければ、苦痛で歩けたものではありません。
『「普通がいい」という病』P.212
戦争が終わる度に「こんな悲惨なことは今後絶対に止めよう」と必ずみんなが思います。しかし、それでもなぜこれほど戦争の歴史は繰り返されるのか。それは戦場というメメント・モリの場で、人々が生き生きとするという、見落とされた側面がある。死が隣にあるからこそ、自動的に生が輝いてしまう。
戦争をしかける国では、ほとんどの人が大通りを歩いているものです。そして、ぬるま湯のような生きている実感が乏しい状態の中で、どこかから正義という名の大義名分が登場して、「あの国に侵略されないために、先手を打ってこちらから攻めましょう」というようなことが言われ始める。すると戦争は反対だと考えていたはずの人たちまでもが、自分の奥底で疼きだす何かに突き動かされて「平和のためだ。戦争をなくすための戦争だ」というスローガンに乗っかってしまうことも起こってくる。それが戦争なのだろうと思います。
『「普通がいい」という病』P.221
ですから、本当の平和とはどうしたら実現するのかと考えてみると、みんなが一人一人の小径を歩くマイノリティになることしかないのではないか。小径では、一人一人が生きること自体がメメント・モリになっているわけで、そうなれば国民の大多数が一つのイデオロギーやムードに支配され流されることは起こらない。それぞれ、自分が生きているということ自体、明日死ぬかもしれないという自覚と緊迫感があるわけですから、誰もわざわざ戦争をしようとは思わなくなることでしょう。
同書 P.221
ですから、「愛」のために私たちに出来る第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。
泉谷閑示『「普通がいい」という病』P.153
ここまで
そうです、戦争を止めさせる一番良い方法は、
団体になって平和大行進をすることでもなく、「戦争反対」と叫ぶことでもなく、
自分という人間が、マイノリティーの道を行く
ということこそだったのです。
キチガイこそが一番の平和主義者だったのです。
だから私は真剣に基地外を目指すつもりでいるのです。
真の平和はキチガイによってもたらされるのです。
その為には、簡単には騙されず、影響されず、振り回されない状況で
本質を見抜く力を養う必要があるんですね。
それとの関連で次回に続けます。
自分の人生を考えることそのものこそが世界の陰謀とリンクするのです。
人間が、誰しもある意味で何らかの工作員であり、
誰しも被害者でもあり加害者でもあるとはそういうことです。
そして、知らずのうちに人殺しに加担し、
でも生きているだけでどこかで誰かの役に立っている。
それが人間というものなんです。
本当に、人間って面白いものですね。
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