ビートルズは洗脳ソング?について~洗脳の自覚は感じられるものか~
玉蔵さんのブログとそのコメント欄についての話題です。
ビートルズは確かに洗脳ソングだけれども、捉えようによっては素晴らしい曲なのかもしれません。
大事なことは、なにか収拾のつかない人間としてとてもとても大事な感情とか情念を、たった一つの方向に向かわされていないか。その危険性にだけ注意すれば良いのだと私は思います。
と、私の書いたコメントに対して、ある方がこう述べられていました。
玉蔵さんの最新記事のあるコメント
「ビートルズは洗脳ソング?」より引用
ビートルズは洗脳ソング?
音楽とは時代を映す鏡のようなものです。
だれしも、自分が一番元気だったころ、楽しかった青春時代、その時耳にした音楽が流れてきたら、懐かしく思うものです。
ビートルズもそうでしょう。
一生懸命だったあの頃。初恋の思い出。
そういうものが、いっぺんに蘇ってくる。
それが音楽です。
タヴィストック人間研究所がなんだというのでしょう。
洗脳音楽?
そうかもしれません。
しかし、人間はそんな単純なものじゃないですよ。
そのオカルト研究所にいって、あなたは実際に検証しましたか?
ただ、ネット情報の拾い読みでしょう?
これこそまさに、
「考えるな、感じるんだ」の実践です。
自分が不快に思う音楽、これを聞かなければいいのです。
何とか研究所がどうたらの話をうのみにして、好きだった音楽を聴かなくする。
これこそが洗脳テクニックなのだ、ということにみなさんも目を覚ますべきです。
分かりましたか?
要は、自分の感覚を磨け!なのです。
2010/07/21(水) 02:03:54
ここまで
洗脳の何が恐ろしいかというと、本人には一切自覚が
無いということなんです。
自由意思を尊重し、それに対応する責任も併せ持つという
近代社会の作りだした幻想なる「個人」という概念において、
どこまでが本人の自由とする問題として
処理することができるのか。
これは本当に難しい所であります。
なぜなら、ヒトは全て考えて行動しているとは限らないからです。
そういう行動をとった理由を客観的にどういう論理で説明できるのか。
洗脳とは、本人の意思に関わらず何らかの意識を植え付け、行動を操作することです。
科学でやられる前に、科学を正しく使い、
分析をしなければ対抗や対策が出来ないと思うんです。
個人の自由な意志というものが、いくらそのある特定の環境が作っている
とはいっても、それの根拠としているものは
本人の自覚なんです。
知らないうちに騙されていたでは済まないというはなしにもなってきます。
でも、何かがあった時、原因を個人の行動のみに焦点を当てたり、
個人を責めることは適切なことなのでしょうか。
感じることは大事だけれども、
人生とお金が切り離せない関係にあることと同じように、
(↑=ひとりではどうしようもないこと)
全く何も考えずには生きてはいけないでしょう。
人間だけが、考えることができるのは確かです。
それを自ら捨てることになっては最終的に
人間性の崩壊を招くと思います。
機械とは違うということを示したいものです。
およよさんと云う方が、「無知は罪だ」と
言う記事を最近書かれていました。
ある意味でそうかもしれないけれども、
何か問題を解決したり捉えたりする中で、
どこまでも個人に原因を求めるのには限界があるのではないかと
私は思います。
何も、統制社会を求めるのでもなく、
人が自由に生きることを否定するつもりもありません。
むしろ、知らないでおく自由を主張する権利さえあるとも言えます。
しかし、やはり自分を作っているのは
社会であり、自然(環境)であり、他人でもあるのです。
世界を構成する一部として存在するのですから、
この世にそれがそれとして在るものなどないと思う訳です。
そのあたりを追求すべき(はっきりさせたい)と思っております。
この話はまだ続きます。
とりあえずここまでです。
次回は、洗脳の構造を解釈するにあたっての
重要な例を挙げることとします。
文化と云うものも立派に悪用されているのではないかというのが
今の私の考えです。
人々の支配・操作には娯楽による愚民化とか、
お金からの脱却を掲げる宗教の芸術や建築とか
様々な方面に及んでいると思います。
それが人類の歴史でもあるのです。
文化と云うものを操ることによって、
健全な庶民の生活を破壊を狙うことも可能なのです。
「自分」が、権力者・支配者層の都合にいいように利用されない為に
何ができるかというテーマです。
どうぞ皆さんもお考えください。
感じることだけでも、考えることだけでも、知ることだけでも
完全ではありません。
私は少なくとも、全てを疑うことを信じたいと思います。
大事なのは、自分がこの世界にどんな風に
「社会的に存在」しているのかということについてです。
そして、洗脳は実際問題としてなんという罪に当たるのかということです。
それは、最終的に、「自分のいのちや人生は誰のものか」とか、
「自殺に追い込むことは殺人ではないのか」とか、
「人殺しが罪にならない状況を決めるのは誰なのか」というような、
人間社会にとってとても大きな壁にぶち当たるものです。
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ビートルズは確かに洗脳ソングだけれども、捉えようによっては素晴らしい曲なのかもしれません。
大事なことは、なにか収拾のつかない人間としてとてもとても大事な感情とか情念を、たった一つの方向に向かわされていないか。その危険性にだけ注意すれば良いのだと私は思います。
と、私の書いたコメントに対して、ある方がこう述べられていました。
玉蔵さんの最新記事のあるコメント
「ビートルズは洗脳ソング?」より引用
ビートルズは洗脳ソング?
音楽とは時代を映す鏡のようなものです。
だれしも、自分が一番元気だったころ、楽しかった青春時代、その時耳にした音楽が流れてきたら、懐かしく思うものです。
ビートルズもそうでしょう。
一生懸命だったあの頃。初恋の思い出。
そういうものが、いっぺんに蘇ってくる。
それが音楽です。
タヴィストック人間研究所がなんだというのでしょう。
洗脳音楽?
そうかもしれません。
しかし、人間はそんな単純なものじゃないですよ。
そのオカルト研究所にいって、あなたは実際に検証しましたか?
ただ、ネット情報の拾い読みでしょう?
これこそまさに、
「考えるな、感じるんだ」の実践です。
自分が不快に思う音楽、これを聞かなければいいのです。
何とか研究所がどうたらの話をうのみにして、好きだった音楽を聴かなくする。
これこそが洗脳テクニックなのだ、ということにみなさんも目を覚ますべきです。
分かりましたか?
要は、自分の感覚を磨け!なのです。
2010/07/21(水) 02:03:54
ここまで
洗脳の何が恐ろしいかというと、本人には一切自覚が
無いということなんです。
自由意思を尊重し、それに対応する責任も併せ持つという
近代社会の作りだした幻想なる「個人」という概念において、
どこまでが本人の自由とする問題として
処理することができるのか。
これは本当に難しい所であります。
なぜなら、ヒトは全て考えて行動しているとは限らないからです。
そういう行動をとった理由を客観的にどういう論理で説明できるのか。
洗脳とは、本人の意思に関わらず何らかの意識を植え付け、行動を操作することです。
科学でやられる前に、科学を正しく使い、
分析をしなければ対抗や対策が出来ないと思うんです。
個人の自由な意志というものが、いくらそのある特定の環境が作っている
とはいっても、それの根拠としているものは
本人の自覚なんです。
知らないうちに騙されていたでは済まないというはなしにもなってきます。
でも、何かがあった時、原因を個人の行動のみに焦点を当てたり、
個人を責めることは適切なことなのでしょうか。
感じることは大事だけれども、
人生とお金が切り離せない関係にあることと同じように、
(↑=ひとりではどうしようもないこと)
全く何も考えずには生きてはいけないでしょう。
人間だけが、考えることができるのは確かです。
それを自ら捨てることになっては最終的に
人間性の崩壊を招くと思います。
機械とは違うということを示したいものです。
およよさんと云う方が、「無知は罪だ」と
言う記事を最近書かれていました。
ある意味でそうかもしれないけれども、
何か問題を解決したり捉えたりする中で、
どこまでも個人に原因を求めるのには限界があるのではないかと
私は思います。
何も、統制社会を求めるのでもなく、
人が自由に生きることを否定するつもりもありません。
むしろ、知らないでおく自由を主張する権利さえあるとも言えます。
しかし、やはり自分を作っているのは
社会であり、自然(環境)であり、他人でもあるのです。
世界を構成する一部として存在するのですから、
この世にそれがそれとして在るものなどないと思う訳です。
そのあたりを追求すべき(はっきりさせたい)と思っております。
この話はまだ続きます。
とりあえずここまでです。
次回は、洗脳の構造を解釈するにあたっての
重要な例を挙げることとします。
文化と云うものも立派に悪用されているのではないかというのが
今の私の考えです。
人々の支配・操作には娯楽による愚民化とか、
お金からの脱却を掲げる宗教の芸術や建築とか
様々な方面に及んでいると思います。
それが人類の歴史でもあるのです。
文化と云うものを操ることによって、
健全な庶民の生活を破壊を狙うことも可能なのです。
「自分」が、権力者・支配者層の都合にいいように利用されない為に
何ができるかというテーマです。
どうぞ皆さんもお考えください。
感じることだけでも、考えることだけでも、知ることだけでも
完全ではありません。
私は少なくとも、全てを疑うことを信じたいと思います。
大事なのは、自分がこの世界にどんな風に
「社会的に存在」しているのかということについてです。
そして、洗脳は実際問題としてなんという罪に当たるのかということです。
それは、最終的に、「自分のいのちや人生は誰のものか」とか、
「自殺に追い込むことは殺人ではないのか」とか、
「人殺しが罪にならない状況を決めるのは誰なのか」というような、
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