やって後悔するのとやらなくて後悔するのとどちらを取るかを決めるのは誰?

皆さん、今日は投票日です。
投票とは、国民が(とりあえず)直接政治に
影響を与える行動・意思表示です。
私の理想としては、生活に密着した政治(半直接民主性)なんですけど、
それをするには大きな障壁や問題に立ち向かう必要があります。
もちろん、革命なんかじゃない。
ならばどうやって世界を変えるのか。
一人ひとりが政治を動かしているという自覚への覚醒が必要です。
「政治とは生活だ」と実感することにつきます。
ただ、覚醒と悟りと云うものは似ているようで違うと思います。
悟りと云うのは意識が高みに達して、
周りからみれば「あきらめ」のようにも見えます。
でも、本人にはそれがどんなものなのかは分かっているはずです。
この世には、自ら意図して冷静に自死する人もいます。
それは、本人からすれば、自分が意図して生まれてきたことへの
最大の抵抗と云うことになるんでしょう。
「親切とおせっかい」は、表裏一体とよく言います。
同じ問題でも、同じ行為でも、見方によれば解釈は100%変わります。
はやくから(何か自分にとって重要なことを)知っていたら
あの時こうしていたのにとか、
でも知らなければ今、何も悩むことは無かったのにとか。
とても貴重なものを平気で捨ててすっきりしたという人のすぐ横で、
なんてもったいないことをしているんだ、譲ってほしいと思う人もいる。
人間には、交換できるものと、交換できないものがある。
交換できないものと云うものこそが、世界を動かしている。
交換しにくいものもやや同様だと私は思う。
記憶と云うものは性格や人格、
世界観を形成する中で大きな位置を占めている。
自分が気がついたときにはもうこの世界に居て、
でも何年たっても分からないこともあるかもしれない。
なんで生きていますか、と聞いて、
「死ぬときに後悔しないため、今を精いっぱい生きるため」
というのは一つの答えだと思う。
でも、人は突然死ぬことだってある。
地震、雷、火事、発作、交通事故、殺人・・・
今日もどこかでまだ生きたかったのに無念に
お亡くなりになられる方がいる。
その人たちの分まで生きられているだろうか。
たまに考える、でも人生は誰のものでもないとも思う。
何をどこまで考えたらどうなるのかが全く分からない。
分からないことも分からないかもしれない。
こうしているうちに、自分がなにを言いたいか見失ってきた。
さて、せっかく政治に対して意見を持っているのに
あえて投票に行かないというのはどう解釈できるか。
選べるのに選ばない。
それも一つの選択なのか。
選択を放棄するのが選択なら、実質選択とはなんなのか。
愛しすぎて愛人を殺してしまったという表現がある。
愛とは何かさえもはっきりしていないのに。
そんなどうにも捉えきれない世界の中でどう生きるか。
悩ましいところです。
とにかく、今日は「後悔しない」ように意志表示しましょう。
投票に行くことだけが意思表示とは限らないことは確かですが。
後になって後悔しても今日という日は二度と帰りません。
後悔しない選択ならばそれでいいんです。
個人的な意見としては、するかしないかで迷った時は、
後で後悔しない為に思いきってやり尽くしておくことです。
選べるものは選ぶ。
それが例え消去法の結果だったとしても。
ただし、自死の後悔はしようがありませんが・・・
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