「性差をなくす=属性からの開放」は本当か

http://hpcgi3.nifty.com/aver021032/nandemo/yybbs.cgi?list=pickup&num=14265#14265より引用(ただのこの私の書き込みですが)
ある授業の感想を述べようと思います。皆さんにも伝えたいことです。
「ジェンダーと言葉」という授業でした。
言葉から、人々の言動・生き方のジェンダー性を社会学的に考察するというものでした(社会学概論の中のそれぞれの教授による専門分野のさわりの位置づけになります)。
多くの場面(会話における態度・話す言葉・人間関係性)での、性別による違いが明らかにされていることがよくわかりました。
授業の最後に、それらの「言葉の性差」論を、ジェンダー論からどうアプローチできるか、どう解釈できるかという講釈の中で、一般的な2つの説(主義・主張)を紹介されました。以下のとおりです。
1、本質主義
ジェンダーをはじめとして、人種・階級・年齢など、人を規定している要素を、その人に内在している特有の一つ(属性)と捉える考え方。
2、構築主義
社会の中の知識や個人の自己同一性は厳然と存在しているのではなく、歴史・社会的に作り上げられており、この過程において言語が大きな働きをしているという考え方。
教授が、全体に向かってあなたはどちらでしょうと言われたので、私は困ってしまいました。なぜ、その2つしかないのか。
私は、拡散する一般化した近年のジェンダー論というものが、「性差をなくす=属性からの開放」という根拠のない発想に基づきすぎているのではないかと危惧します。
私たちは、ある一種の動物でもあるし、
社会的な存在・人間として生きられることを
求められてもいます。
人間というものが、人間を人工的に作り出すことの
ない以上、自分たち人間が自然に生きる動物
であるということも永遠に否定できません
(それがいいとか悪いとかではなく)。
だから私は、決して言葉だけを変えて体制が変わるとは思いません。
重要なのは、らしさを無くす(消失させる)ことではなく、
らしさを、属性にとらわれず、お互いに認め合うことです。
私の母が、最近しきりに言っていることがあります。
「ああ、自分が男だったらこんな暑い夏中、頭を丸坊主にしていられるのに」。それに対して私は、「やればいいやんか、何でしないん?」(するといいじゃんか、なんでしないの?)と言いました。母はこう答えました。
「だって、女で丸坊主にしてたら、癌になったと思われるやん、誰もしてないんやからそうなるやろ。(誰もしていないからそういうことになるじゃん)でもそれはあかんやろ(でもそんな間違えられるようなことしてはダメだろう)」。
それを実現させてあげるのが、私の理想とする新世代の本質的平等志向のジェンダー論かな、と思いました。
2010/07/01(Thu) 11:14:27 [ No.14265 ]
方言に間違いなどないのと同じように、
そもそも言葉遣いの正しさなどあってないような空虚なものだ。
一部の女性が、夏に暑いのを我慢して髪を無くさないのはそれと同じだ。
重要な注目すべきポイントは、それを社会がどう受け止めるかに他ならない。
生き方に正しさなどない。
それとの関連で、いきなりですが、
「死刑は誰の為に執行されるのでしょう」。
更生可能ならば、例え殺人を犯しても(特に、意図的・複数ではない場合)
20~30年後には社会復帰と云うことになります。
最近は、刑務所にいたいから(生きる場所がないから)わざと犯罪を犯す人もいます。
また、死刑になる為に人を殺す人も現実にはいます。
そのようにして執行された刑罰と云うものは、
本人にとってはどのようなものなのでしょう。
もしかしたら、幸せなのかもしれない。
光栄なのかもしれない。
安心する場所・境遇なのかもしれない。
ならば、それならば・・・
死刑は一体だれのために行われるものなのか。
死刑になりたくなくて人を最初から殺させないことと、
(とりあえず)自由な社会に生き、自己の行為に責任を負う為の
刑罰であるはずだった(本来ならば)。
それなのに、(加害者である)本人の為に行うようなものだ。
問題:開放とはなんだろう。
それは人によって根本的に違うものなのか。
「価値観の違い」で済ませることは可能なのか?
価値観はいつ、どこで、どのように形成されるものなのか・・・
答え(仮):一人ひとりが考える時代になっているということだけが確かなのだ。
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