人間性を奪い、自由をないがしろにし、個人を束縛する「構造(物)」からの卒業
恐喝狂師 (或る浪人の手記)
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/341.htmlより引用
http://restororation.blog37.fc2.com/blog-entry-2419.html
募金しない生徒名黒板に掲示、大館一中 苦情受け撤去
大館市立第一中学校(菊地俊策校長)2年生の二つの学級の担任が、東日本大震災の義援金を納めない生徒の名前を数日間にわたり教室内の黒板に張り出し、保護者からの苦情を受けて外していたことが19日分かった。
同校によると、義援金は被災地支援のために生徒会が自主的に企画。全生徒の協力を目標に、11日から17日まで1人200円以上を任意で募った。学校側も学年通信で呼び掛けるなど協力した。締め切りが近づいた16日ごろ、担任2人は個々に、募金していない生徒の名前を書いた紙を黒板に張り、掲示後に募金した生徒の名前にはチェックを入れていた。名前が張り出された生徒は合わせて約20人。
同校は18日午後に保護者からの苦情を受けて、すぐに掲示をやめさせた。菊地校長は「(全員協力という)生徒会の気持ちに応えようとしたもの。普段から忘れ物をした生徒の名前を張り出しており、担任はそれと同じ感覚で掲示したようだ。今後このようなことがないようにしたい」としている。
(2011年05月20日 秋田魁新報)
相変わらず、頭おかしい奴が多いなあ、狂師様は。
募金するのは良い事だし、募金を呼びかけるのも良い事だけれど、募金を強制したり、挙句にはしない人間を吊し上げたりするのは異常だと、考えなくとも分かるんだけどなあ、普通は。
目的が募金という「善行」だろうと、これは恐喝そのものだよ。
目的が良い事だからってコレが許されるなら、田舎のヤンキーのカツアゲだって、子猫に餌をやる為、とか言ったら許される事になる。
大体、家庭の事情で、募金するだけの金銭的余裕の無い児童もいるだろうに、そういう子に最低限の気遣いすら出来なくなったら、狂師どころか人間終わり。
そんな、人間終わりの立派な塵罪が他人様の子にモノを教えているんだから、本当に世も末だ。
ここまで
こういうニュースを聞いて、残念に思うのは私だけではないだろう。
学校は何の為にあるのか。
それを一から考えてみたい。
そろそろ教育について語る時が来たのだ。今がその時だ。
避難所で無理やり教室を作って授業やっているけど、
あまりにも滑稽。何がやりたいの?
教材は壁に囲まれた教室?冗談じゃないよ。
人工的にしてもそうでないにしても
あれだけ歴史的な変動があったのにそれを無視して何が教育か。
やっぱりさ、駄目なのは学校という「建物」であってさ、
病院という「構造物」であってさあ、
先生や医者が人間としていけないのではないんだと思う。
間違ってきた根本の原因は、
その「建物」にある!!!と私は思うのだ。
どうしてそのような範囲で全てを教えられるというのか。
私も自分の学校生活を振り返って改めて不自然に感じる。
そろそろ「学校」とか、「病院」という
構造からの卒業を本気で考えるべきだと思う。
「地域に開かれた学校」って言葉だけやん。
全然、開かれてないと思うのはなぜだろう。
放っておいても自然に学ぶと思うんだけどなぁ~
学校の扉ってそんなに厳重に閉めておくべきなのか?
そろそろ風に吹かれよう。
いざという時に気持ちよく死んでいける為に。
私は苦しむために生まれてきたのでもないし、
苦しみながら死んでいくのは納得がいかない。
だから、ただこの社会において
個人を縛るあらゆる構造から「卒業」したいのだ。
間違っても、募金しない人の名を書き出す様な人から離れるように。
なんだかんだいって、この世は窮屈だ。
本当の自由はこんなものではないと信じるからこそ―――
ソフトな個人革命を連鎖させていこうではありませんか。
それこそ「自分が変われば世界が変わる」。
実験段階は既に終了した。あとは実現に持っていくだけ。
世界(構造)は、一人ひとりの人間の鏡です。
あなた(私)が見る世界は、もう一人のあなた(自身)です。
そして、このことが「真実は常にひとつ」を否定するのである。
本当に「真実は常にひとつ」なら、鏡に映る自分をどう捉える?
さあ今こそ、風にふかれよう!!!
(放射能対策を忘れずに!)
↓窮屈な構造(物)から「卒業」して風に吹かれよう!と思う人はクリックをお願いします。


↑とにかく共に生き残ろう!と思う人はこちらも応援をお願いします。
スポンサーサイト